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2014年10月 薬用竹節人参(やくようちくせつにんじん)発見と 一官何欽吉(いっかんかきんきつ)の由来


当家の祖先、漢方医一官何欽吉は、正保3年(1646年)日本ではじめて「薬用竹節人参」を発見しこれを使用した、日本における"薬用竹節人参発見使用の第1号"である。今を去る370年の昔、明末の乱をさけて(北方より清が起こり明が滅びる時)中国広東省潮州より船を出し、薩摩の国内之浦に入港した一団がある。この一団の中に漢方医何欽吉がいた。彼等は志布志を経由して都城の唐人町に入居する。(当時の内之浦は都城藩の飛地であった)ほどなく何欽吉は三股町梶山の山中で高麗人参によく似た「竹節人参」を発見。これに「和人参」と名前をつけひろめている。15代藩主久直の未亡人春嶺に重く用いられ、知行20石を受けた。墓は都城市西墓地にあり、宮崎県の史跡指定をうけている。大正の末期まで瀬尾氏と同一個所にあり、代だい供養を続けて来た。(瀬尾氏の五代以前は天水姓)天水一族が中国から持参した、「娘像」、「千里眼」、「順風耳」の三体は家宝として今も祭られている。日本では長崎の国宝祟福寺、川辺郡坊津町歴史民俗資料館(現 南さつま市輝津館)にあり貴重な民俗資料となっている。

 

文献:三国名勝図会 庄内地理誌